送別会と送別品に感じる儒教的な嫌らしさ1️⃣

これを書いている今、きっとこれから出勤した後に、係長からのお叱りが待っているんでは無いかと思っている。
なぜなら自分が今の会社を退職しようってことで開かれる、送別会を欠席するからである。
いかんせんSVからブーイングが飛んで来たので、恐らく昨日一日外出していた係長から怒号が飛んで来るに違いない。

常々思うのだが、入社の時の歓迎会はいざ知らず、退職の時の送別会は寿退職と定年退職を除き、やらない方が良いんじゃ無いかと思っている。
私が初めて送別会を出席拒否したのは、強迫性障害によって雇い止めをされた時。

この時の心理状態を思い出すのは容易だが、精神疾患が原因で雇い止めをされるということ自体、あまりに惨めなものであったから、そこに送別会が開かれるというのは寧ろ追い討ちでしか無かったと思っている。
こうした雇い止めや解雇による送別会に出席したく無いという声は、やはりネットを探して見ると容易に見つけることができる。

契約社員無期雇用化の法案が出来てからというもの、4年半を以って雇い止めになるケースも聞くようになった(当初から懸念されていたが・・・)。
一応、この記事を書いている現段階で私が所属している会社では、無期雇用になった契約社員は多いが、やはりされない会社が多いということだろう。
元のツイート主からも、雇い止めされることの無念さが感じられる。

こうして見て見ると、送別会と言うものにさえ、儒教的な観念を感じるものがある。
これでは一体誰のための送別会なのか・・・。
例えばここで言われている贈り物にしてもそうである。
例えば、会社を退職するにあたり、個々人が贈り物をくれる時は、自己都合か解雇かに問わず嬉しいものがある。
個人として贈ってくれる贈り物には、大なり小なり、贈ってくれた本人が自分に何かしらの感謝の念を持ってくれていることがわかるから、嬉しいものだ。
問題は組織単位で行われる場合で、その花束1つさえ、他の人から集金をして買った花束なわけだね。
この花束や飲み会こそが問題で、果たして本当に契約社員を気遣ったものになるのだろうかと疑義を感じざるを得ない。

明日も見えぬ僕達

雇い止めされると言うことは、いわば明日から失業者状態だ。
会社都合なら失業給付を直ぐに受け取れるから良いが、万一自己都合扱いにでもされたらと、気が気でない。
私も実際、コールセンターを雇い止めされる時には何度も会社都合になるか念押しした。
一度失業すれば、それは明日も見えぬ僕達という状態になる。
そう、直ぐに職探しで右往左往しなければならない事態が待っている。
そんな彼らを前にしての送別会。一体誰のための飲み会だろうか。

変な話だが、日本企業は飲み会が好きな割に、何かネタ(口実)が無いと開けないことが多い。
歓送迎会、忘年会は宴会好きな人にとっては、正に飲む(飲みに行かせる)ための、格好な口実だ。
こうした飲み会は建前上、上司の「お前を気遣ってやってる」をベースにされていることが多いように思える。
しかし、そこがある意味で朱子学的という感じがしており、いわば「君たちより偉い僕達がタダで飯を食わせてあげるんだよ。だから断らないよね?」というのが、根本価値観となっているように見える。
そうした朱子学的なお上の思考を感じるからこそ、辞めさせられる側も辛い心境になるのだろう。

Script logo