VTuber計画を振り返って判った惨状-なぜリベラルは衰退したのか❷

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日常のないリベラル(自由)⇐え?

自民党は英語にすると「Liberal Demokuratik Party」で、それで「自由民主党」を表すのだが、まぁ「お前らもう党名変えろ」と言いたいくらいに彼らから「自由」も「民主」も感じない。まるで北朝鮮人民民主主義共和国の国名のそれと同じようなペテン的要素を党名から感じるものである(現に改正憲法案では表現の自由は制限される)。
一方で政治界隈で言う「リベラル」に「自由はあったのか」というと、それはそうでもない。というより「日常すらがない」のが、先のVTuber候補のTwitterアカウント運用で判ってしまったのである。
「政治の話は禁止だが、それ以外のことは何を呟いても良い」という条件でTwitterアカウントを渡してみた。時は連休期間中。少なくとも小学生でもクリアできる簡単な課題だと思っていた。
それがいざ渡してみると、日常のツイートをするどろこか単なる時報でしかなく、ハッキリ言ってツイートの質はゴミである。ゴミの方が価値があったかもしれない。
2018年末の時点であのツイートを見た時に思わず激怒してしまった私であるが、今見たら鉄拳を入れたくなるかもしれない。
政治以外の日常をツイートするという、およそ小学生でも簡単に出来る課題を大人が束になっても出来ないという凄まじい惨状に、震える拳が止まらないものがある。
4~5人が束になっても出来ず、その辺のインスタ女子の投稿の方が1000倍は面白く、いや、1000倍という数字すら甘めにつけているくらいにはツイートの質はゴミであった。
「これで何がリベラルVTuberだ、その辺のインスタ女子の方がリベラル(自由)じゃないか、笑わせるな!」と言いたいくらいに酷い。酷すぎる。酷すぎるという言葉すらまだ易しい。
いったいどうしてこうもつまらないツイートしかできないのか。有体に言えばリベラル(自由)どころか日常すらないのが政治界隈におけるリベラルの現実なのである。世界的にもリベラルが嫌われているという話を聞いているが、まぁ生活を一般大衆に合わせてみよう(相手の目線に立つ)という動作が出来ず、高潔なる言説や態度を振り撒いたりすれば、嫌われるのは当たり前のことである。

結局れいわ新選組の登場を待たねばならなかった惨状・・・

『リベラルネット戦略』というものの存在は結局のところ、社会に対して果たせた役割など皆無であると言って良い。
いくつかのリベラルVTuberはカスタムキャストで動いているとはいえ、まぁ身内しか見ておるまい。世間一般からは見向きもされていないだろうし、まとまった時間を必要とする動画において、わざわざ時間を割いてリベラル先生のありがたいお言葉なんて聞いてられるほど世間は暇ではないからである。そんな動画を見ている時間があったら、就活教訓動画やプログラミング言語の今と将来についての展望開設をした動画の方が直接的に役に立つ。壊れたiPad液晶の修理動画の方が自力で直すかどうかの判断材料に役立ったりで、なんの面白味もなさげなリベラル先生のお言葉なぞ聞きたくもないのが現実であろう。だからこそ結局のところ、政治にエンターテイメントを持って来れた、れいわ新選組の登場を待たねばならなかったと言える。
いかんせん、山本太郎の演説は見ていて面白い。流石エンタメ業界でキャリアを積んできただけに感性が磨かれている。
少なくとも山本太郎はリベラルかというとそうではないし、彼の政策の一つであるMMTは支持をできないが、それでも残った可能性がれいわ新選組しか残されていないかのような感覚はある。
いや、そもそもリベラルとは自由を目指す思想ではなかったのかという話であり、いつの間にエリート主義的左派がリベラルを名乗るようになったからおかしくなったのではないかとすら感じる。
そして元々のリベラル(自由)を目指していた人間がリベラルを名乗るのが堅苦しくなり、リバタリアンを標榜するようになったとか、この辺りは考え出すとわけがわからないので、控えるが、少なくとも今のリベラルに伸びしろが無いのは確かである。

政治外無関心から脱却するために普通の人間の感覚を取り戻せ

リベラルは度々選挙に行かない政治無関心層を責め立てるが、私からして言えばリベラルは政治外無関心である。
連休期間中に運用させたツイッターアカウントで、政治外のことだけを呟くなど簡単なことではないか。いくら失敗しても良いから沢山日常を呟けという課題は難しい課題なのだろうか?
その辺の中学生でも簡単にこなせる課題だと思うのだが、それを大人4~5人集まっても出来ない。その癖有権者は見下すでは、一体お前らは有権者の何をわかっているんだと説教したくなる。
結局のところ今のリベラルは単にエリート左派主義的なものがリベラルと名乗っているのであって、その中身が決して自由(リベラル)ではない。寛容性がない。そこに希望を見いだせないのは当然のことだ。
結局のところ、まずは普通の労働者の感覚を取り戻すことがリベラルの最優先課題であって、そういった意味でもマーケティング(顧客理解)は必要なのだが、いかんせんマーケティングという単語を出しただけで怪訝な顔をする人もいる界隈である。マーケティング軽視は顧客(有権者)軽視に他ならないのだが、それを言って理解されることは無いだろう。その態度を改めない限り、今後もリベラルに未来はない。

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