東京の閉鎖性:尊王攘夷はレイシズムを内包していたか1️⃣

日本におけるダイバーシティの先進都市は京都である

フリー写真素材:京都市鴨川(TW710EBS)

写真:京都市のフリー写真素材より

大阪転職により京都へ移り住んで早3ヶ月。これから厳しい夏を迎える京都の暑さがどんなものかと考えつつも、思った以上に住みやすい街である。

「住めば都」というが、元より京都は1000年の歴史を紡いできた都である。
桓武天皇が平城京から長岡京での失敗を経てこの地に都を遷都され、武家政権になってからは天皇の実権は失われつつも、明治時代になるまでは上京に天皇やお公家さんがいて、下京では商人や職人による営みが行われ続けた日本最長の都会である。

一般的に京都は観光地であると同時に閉鎖的な街、あるいは陰湿な京都人のイメージがよく知られる街であるが、その反面。意外と懐の深い一面も存在する。
日本で初めてLGBT向けの結婚式サービスを行なったホテルはホテルグランヴィア京都という。その前からLGBT向けの挙式を行なっていたお寺が春光院という寺で、ホテルグランヴィア京都は春光院との協力によってLGBT向け挙式サービスを実現した。

京都市はダイバーシティという言葉が日本にまだ入っていなかったであろう1978年に世界文化自由都市宣言を行なっており、この内容はほぼ今日のダイバーシティそのものの内容である。
閉鎖的と他都道府県民に知られる京都であるが、一方で世界に開かれた都市としての側面を持ち、新しいもの好きで表立った争いを好まない京都人の特性もあってか、意外と懐の深い面もある。

京都と比較して気付く東京の閉鎖性

「一見さんお断り」の言葉からも見られる通り、京都は閉鎖的な街という印象の方が他都道府県民には強いと思われるが、実際の京都はそこまで閉鎖的でも無いのである。
何せ学生の街であり、また観光によって世界に開かれた都市として発展しつつある。観光によって京都を気に入った外国人が、やがて京都に定住するようになったとしても不思議ではあるまい。
そんな「閉鎖的な京都」と比較すると、東京は本当に開かれた街なのかと疑ってしまうものである。

私がこのサイトを立ち上げたのはポーランド製CMSたるQuickCMSの研究目的が主であるが、サイト内容が政治を扱っているのは川崎で行われていたヘイトスピーチデモに関わることになったことが大きい。
丁度その時は川崎で勤務を開始した頃で、時は安倍政権後期である。
武蔵小杉で行われたヘイトデモを皮切りに政治の世界に関わることになり、色々な挫折もあって京都へと行きついている。
京都に行きついたのは半分は積極的な要因であり、半分は逃亡という意味合いもあると言うのが実態である。まぁ、どうあっても東京の満員電車通勤など二度としたくはないが…。

ヘイトデモが重荷行われてきた街は川崎であり、東京である。
次いで大阪であり、京都でもまぁ、それなりには行われていた。
しかし、結果的に日本第一党(旧在特会)の京都本部は解散に至り、一方で相模原での活動は活発になってきたと言える。

古谷経衡氏の調査ではネット右翼は日本に凡そ200万人、そのうち約3分の2が首都圏在住の中産階級であるという。これは概ね間違ってはいないと思われ、首都圏のミドル層~シニア層、性別は男性がネット右翼の主流にいると言って良い。
実際、浅草でも川崎でも、ヘイトスピーチに参加している人間はそこそこ金目の物を身に纏っている人間が見受けられた。

Yahoo!知恵袋に「ネット右翼は東京だと足立区に多いと言うが本当か」というスレッドが建てられていた。
だが、私は足立区よりも寧ろ港区や千代田区など、高い家賃帯のエリアに住める人間の中にこそ多いと考えている。
ヘイトデモの多さからもそうだが、西日本の人間と比べて東日本の人間の方が、精神的なパーソナルスペースが広いように感じられるのだ。

これまでのSNS生活を振り返って見ると私には大阪に友人が多かったが、大阪人は繊細ながら人と歩み寄ろうとする姿勢があるのに対し、東日本の人間は警戒心が強いと言うのが感じるところである。
ある意味で東京は巨大な田舎であり、いくら成田や羽田に国際空港を整備し、国際化をしたと言っても、根っ子の部分はまだ田舎者なのだ。

尤も、江戸人はもっと大らかな人間だったのではないかとは考えるものである。
私の高校時代の簿記の先生は東京の下町出身であったが、当時の先生曰く「生粋の江戸っ子(下町育ちの人間)は大阪人と気が合う」と言っていた。
なるほど、京都へ通えば通うほど、東京こそ閉鎖的な街では無いかと思っていたのだが、東京でヘイトスピーチが多く行われるのもある意味で自然ではある。
そもそも今日の東京を作った人間からして閉鎖的な人間だったのだ。

今の東京の前身を作ったのは明治政府(明治維新に関わった人間)であるが、明治維新に関わった者の前身は尊王攘夷運動である。
彼らがやったことを漢字二文字で表すなれば「排除」と言って良い。
少なくとも尊王攘夷運動から西南戦争にかけての一連の流れというのは、排除の論理で動いている。そんな彼らが江戸を壊して作った街が東京であり、明治時代から令和に至るまで、ある意味で東京は閉鎖的な面を持っているのではないかと思っている。

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